清風萬里 全国大井田同族会

大井田氏が活躍した時代のようす(大井田氏の歴史)

承久の乱(1221年、朝廷と鎌倉幕府の争い)ののち、朝廷は幕府に実権を奪われ、天皇の跡継ぎを決めるにも、幕府の意見を聞かなければなりませんでした。

 しかし、北条氏の専制政治(独断で政治を行うこと)に対する後家人(鎌倉幕府の将軍直属の家来)の反発や、悪党たちの活発な動きなどから、幕府の衰えを感じた後醍醐天皇は、天皇中心の政治を取り戻そうと、倒幕(幕府を倒すこと)を企てました。

 計画は2度にわたって幕府にもれ、事前に潰されましたが、元弘元年(1331年)、ついに後醍醐天皇は奈良の笠置山で倒幕の兵を挙げました。楠木正成は、赤坂城にこもって戦いましたが、幕府の大軍にやぶれ、天皇は翌年、隠岐(島根県)に流されてしまいました。

 倒幕計画は失敗におわりましたが、後醍醐天皇の皇子の護良親王や、河内(大阪府)の武士・楠木正成らは抵抗をつづけていました。正成は、千早城などにたてこもり、幕府の大軍を相手に、粘り強く戦いました。さらに、北条氏に反発する後家人たちも、各地で立ちあがりました。天皇もこれに勇気づけられ、隠岐からの脱出に成功しました。

 元弘3年(1333年)幕府は、反乱を鎮めるために、足利尊氏・新田義貞らの大軍を京都に送りました。しかし、かねてから北条氏に反感をもっていた尊氏は、途中から幕府にそむき、京都の六波羅探題(鎌倉幕府が京都や近畿地方を支配するために、京都の六波羅に置いた出先機関とその職名)への攻撃をはじめました。

 一方、幕府軍にあった新田義貞は、後醍醐天皇の綸旨をもらったので、病気と偽って、京都から上野国(群馬県)新田郡へ帰り、密かに倒幕の計画を立てていました。

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