福山合戦のようす。(大井田氏の歴史)
(1)福山合戦までのようす。
やっと実現した建武の新政は、長くは続きませんでした。建武2年(1335年)、鎌倉にいた足利尊氏が兵を集めて朝廷(天皇方)に反旗を翻したので、再び戦乱の世となってしまいました。
新田義貞たちの官軍は、尊氏らを滅ぼすため、京都から鎌倉へ向かいました。勿論、大井田氏をはじめ新田一族は、義貞に従っています。戦いは、勝ったり負けたりを繰り返していましたが、京都、豊島河原(大阪府)の戦いで尊氏軍は破れ、九州へ逃れました。
いったん北九州の福岡まで逃げのびた尊氏は、多くの兵士を味方につけ、大軍をもって再び京都をめざしました。そして、備中国福山(岡山県倉敷市近く)まで東上してきたとき、わが越後国妻有郷(新潟県十日町地方)の大井田氏経(義貞方の大将)たちは、大軍にも恐れることなく勇敢に戦ったのです。
(2)福山合戦のようす。
福山城にたてこもっていた官軍の将兵たちは、尊氏軍東上のことを聞いて、「この城はまだ完成していない。敵は足利軍の大将・足利直義(尊氏の弟)で、30万の大軍だというし、このようすでは、戦をすれば負けるだろう。城をもちこたえることは、できそうに思えない。」といいあった。それに対して、大井田式部大輔氏経は、しばらく考えてから一同にいいました。
『合戦のつねとして、勝負はときの運によるとはいえ、たしかに味方のような小勢で、敵の大軍と戦ったら、千にひとつも勝ち目はないだろう。とはいえ、はるばる遠く越後の国から足利殿(尊氏)の上京を防ごうとやって来た者が、敵が大軍だからといって、聞いただけで逃げることなどどうしてできようか。たぶん、心にめざすものを同じくする者が、ここでみんな討ち死にするのが、生まれる前からの「いんねん」に違いない。死を軽んじて名を重んずる者こそ人という名にふさわしい。一同みなここで討ち死にして、その名を子孫のために残す覚悟をおきめあれ。』
これを聞いた将兵たちは、いうまでもないことだと聞き入れました。すると、将兵たちの心のなかにあった不安は消え去り、かえってすがすがしく、勇気をふるいたたせて合戦に挑みました。
このとき、九州・岡山など中国地方では、多くの将兵が尊氏・直義の大軍に恐れをなして北朝方につきました。
延元元年(1336年)5月15日夕方、直義の軍勢は福山城に接近し、数百か所でかがり火をたきました。足利軍は、これだけの軍勢を見れば福山城の軍勢も恐れをなして消え失せるだろうと思っていました。
しかし、福山城の大井田氏経たちは、沢山のかがり火に少しも恐れず、負けじともっと多くのかがり火をたきました。
これが合図のようになって、戦が始まりました。よく16日朝、直義軍の大軍が、浅原峠などから攻めたところ、守りは固く「から堀」があったり「さかも木」があったり、「弓矢」が雨のごとく放たれ、斜面からは大きな岩や石がゴロゴロ・ガラガラ、もうもうと土煙りをあげて落ちてきます。大井田軍の抵抗がとても強く、このときだけで1万余騎の戦死者が出て、少しも城を攻めることが出来ませんでした。
その次の日の朝、福山城のまわりに朝霧が立ちこめていました。その霧の向こうに、二引両印の旗がひるがえっていました。それをみた氏経は、「あれはまさしく直義だ。生かしておくものか、一同、われに続け!」と叫んで、お城に500騎の守りの兵士を残して、2万碕の大軍に向かって、わずか2千騎で戦いにうって出ていったのでした。血みどろの戦いはいつ果てるともなく続き、氏経は大将・直義をめがけて敵軍をけちらし、勇猛(勇ましく強いこと)につき進みましたが、直義を見つけることが出来ませんでした。そのうち、氏経自身も負傷し、味方の兵にも戦死者が次々と出て、400騎ほどを残すだけとなりなりました。ふり返れば、福山城は炎に包まれ、すでに落城したようすに無念の涙を流しながら、両手をあわせて福山城をふしおがみました。
そして、大将氏経は、兵士たちを集めて、「今日の合戦はもうこれまでだ。これから一方の敵陣を破って播磨(兵庫県)・三石(岡山県東部)にいる軍勢と合流しよう。」
脱出は成功し、18日の明け方三石に落ちのびました。福山合戦は、こうして3日間の戦いで終わりました。城山付近には、戦死者がごろごろ横たわり、草木はなぎ倒され、それはそれは目もあてられない光景となりました。
最初の福山合戦慰霊祭は、600年祭として昭和10年に、福山城山頂で行われました。その後、660年祭(平成8年)は、第3回大井田サミットとして合同慰霊祭が盛大に行われました。城跡には「大井田氏経」の立派な記念碑が建っています。
(注)用語の解説
・かがり火(葦火)鉄で作った篭の中に薪(松の木材を割ったもの)を入れて火をたいた照明。
この篭を「かがり」といいます。夜間の警護などには欠かせないものですが、イワシ・アジ・イカなどが火に集まる習性を利用して、漁り火(いさりび)としても使われました。
※以上の物語は、「太平記」という本に書かれています。